まだ見ぬ未来のおまえは自分らしく生きているか

よくきたな。おれは塚本ゆかりだ。おれは毎日すごい量のテキストを書いているが、誰にも読ませるつもりはない。しかし先日『プリティーリズム・ディアマイフューチャー』を再見したところ、このアニメについて猛烈に語りたくなり、いてもたってもいられなくなったのでこの記事をしるすことにした。

はじめに言っておくが、この記事はおれがコロナとドリトスをやりながら書きたい事をじゆうにかきつづる場所・・・つまりネタバレへのはいりょとかそうゆうものが一切そんざいしないメキシコの荒野だ。もしもこの真の男のための物語を最後までみたことが無いという場合はすぐに記事を閉じてdアニメストアなどのかくしゅ配信サイト、もしくはゲオとかツタッヤとかゆうレンタル・シッョプでいますぐ『プリティーリズム・ディアマイフューチャー』を市長するべきだ。だがきをつけろ。先に『プリティーリズム・オーロラドリーム』をみてからだ。なぜなら『ディアマイ』は『オーロラ』の続きだからで、そうゆう順番を守れないうらなり野郎は「なんだかよくわからなかったなあ」などとあほのような感想をのこし・・・真の男のための物語とはなにかを知らないままで、年老い、やがて・・・・死ぬ。END OF MEXICO・・・・・・・おまえがそのような堕落にまみれたこしぬけの一生を送りたいというのならばおれはとめないが、そうでないならおとなしく順番通りにみるべきだ。オーロラドリームの方も負けず劣らず真の男のための物語であるという事はおれが保証しよう。レインボーライブも同様だ。

だがおまえは妙にひねくれており、乗り遅れたのが悔しく、「ネタバレなんて気にしないぜ」などといって真の男をきどり、くだらない蛮勇で完全なる初見で作品を楽しめるというおまえが頭をうつとかしてきおくを失わない限りは一生に一度しか訪れる事のないチャンスを棒に振るかもしれない。もしくは「プリティーリズム・・・しっているぞ、レインボーライッブとかキングオブプリズムとかいうやつだろう」などとスマッホでsiriとかにきいた知識で知ったかぶって、ディアマイフューチャーをレインボーライブのオマケのような扱いをする。それはメキシコでGUNを持たずにまるごしでバーに入り、ミルクをちゅうもんするようなものだ。おまえはおそらく、注文したミルクを飲むことすら出来ず、ダニートレホですらないその辺の酔っぱらいにナイフでころされ、犬にも慰めてもらえない死をむかいるだろう。これはどちらもどうしようもない完全なこしぬけであることが証明されている。いつからおまえはそんなになってしまったのか?スマッホンの予測変換のせいで、おまえの中の真の男は死んでしまったのだろうか?だが仮にそうだとしても・・・・・・よみがえる。プリティーリズムをみることでだ。プリリズ・・・イクォール、ドリトス・・・バンデラスもそういっていた。

 

さて、おれはこのディアマイフューチャーというアニメについてメキシコの荒野に日が昇るまで語り続ける事ができるほどの深い愛をもっているが、それら全てを1から語るという事はしない・・・いやそのうちするかもしれないが、少なくともここではしない。なぜならそんなことをすればテキスト量は膨大なものとなり、はてなブロゴのサーバーはあまりの文章量にたえきれえずばくはつし、何の罪もない運営会社の社員たちの命を奪う事になるからだ。真の男は無駄なころしをしない。よってこんかいはディアマイフューチャーの、いや、オーロラ・ドーリムからつづく壮大なサーガの終焉・・・つまりFINALE・・・・・であるグレイトフルシンフォニア編を1話ずつやっていこうとおもう。

 

#46 センター争奪! ライバルは友達?

 「グレイトフルシンフォニアがはじまるのは48話だよ?この回はまだじゃない?」お前はすぐそうやって聞いてくるかもしれない。だが真の男はそういうことをいちいち気にしない。おれはこの回が大好きだ。

プリズムショーは「エンターテイメント」と「競技」の2つが合わさりつよい。

だが2つが合わさっているからこそ、エンターテイメントであるからこそスタァ同士のチームワークは大切だし、競技であるからこそスタァ同士で互いに競い合っていかなくてはならない。そのため、ただ一人シンフォニアシリーズを手にしてグレイトフル・シンフォニアを完成させるスタァを選出するために、『親友』だったあいらとヘインは『勝者』と『敗者』にならなくてはならない。

ゆえにみあの「ライバルやめる?それとも・・・友達・・・やめるの?」という問いに対しヘインは「センターになるためだったら・・・」と肯定とも取れる返事をするのだ。ここでハッキリとした拒絶でもやんわりとした否定でも無く『やんわりとした肯定』なのが最高にウマイ。みあと友達をやめるのは並大抵のことではない・・・だが同時に勝利も絶対に譲れない。他のどの返事でもこの感情は出せないだろう。それまでの別れの挨拶は「また明日ね!」だったが、この日だけはみあは笑顔を作り「わかった、じゃあね!」とかえす・・・二人とも背中を向け歩き始め相手にわからないようにまっすぐ前を向いて泣く・・・完璧な描写である。このざんこくなまでに描写された決別の描写におれは獣のように吠え・・・・・怒り狂い、泣いた。各出版社はいますぐプリティーリズム・ディアマイフューチャーの第46話を国語の教科書に乗せるべきだ。DVDとか付録で。

このように決別ともいえる別れを遂げたふたりだが・・・よみがえる。ふたりでのぞむプリズムアクトによってだ。二人がプリズムアクトの先に見た光景・・・・それはあいらとヘインがプリズムショーによって出会い、友となったありし日の記憶だ。つまり、ふたりが同時に「友達」であり「ライバル」であり「プリズムスタァ」となった瞬間の記憶である。ふたりは約束の樹の下に互いを称える言葉を収めていた・・・つまりこの時から「親友」で「ライバル」をじつげんさせていたのだ・・・だがその関係を永遠に続けることはできない・・・そこについては次回47わで詳しくやるのだが、ともかく彼女らは親友とライバルを両立させる事に諦めずちょうせんし、その努力の成果、実力を持ってして観客たちに素晴らしすぎてどちらにも投票できないという感情を引き起こし、グレイトフルシンフォニアまでという短いじかんではあるが・・・2人で1番を勝ちとる事にせいこうする。だが・・・ふたりが親友であると同時にライバルである以上いずれは決着をつけなくてはならないのがメキシコのおきてなのだ・・・

 

#47 ワガママみあ 前代未聞のドタキャン騒動

 みあがヘインとの別れを受け入れられず、だったらグレイトフルシンフォニアを開催させなければよいのだといって脱走する回・・・つまり、一年間で培ってきたみあとその仲間たちの覚悟が試される回だ。この時のみあの『幸せな時間を終わらせないためには前に進まなければ良い』という考えは奇しくもラスボスである阿世知欽太郎と同じである。つまり仲間の力でこの買いを乗り越えた時、みあはすでに楽しい時間を永遠に続けるというタルサドゥームのみせる甘い幻想に打ち勝っているのだ。だがOPで毎週「僕らの時代 先が見えない事ばかりニュースは伝えているけど いつもの場所で変わらない友達と会えるだけで幸せ」などと刷り込んでおいてからそれが破壊されるというてんかいをもちこんでくるとは、なんとざんこくな作品であろうか・・・・・おれはその恐るべき破壊の光景に震え・・・顔を両手で覆い・・・哭いた・・・・・・

このエピソードでもとっも輝いていたのはソミンであるとおれは思っている。別れが目前に迫り、あのみあでさえふさぎ込んで泣いているなか、1年間ずっと泣き虫として描写されてきたソミンがみあとヘインに喝を入れる。この時点でおれは両目を見開き「サホーレー・・・・ソミン・・・」と感嘆の声をあげるしか無かった。だが次にヨンファから「泣いていい」と言われたソミンが一番に声をあげて泣くという場面を見た時点でおれはもはや知ったようなコメントができる状態ではなくなり、痙攣し始めた。失禁する奴もいるだろう。ソミンも懸命にこらえて、ギリギリの状態であの表情を作っていたのである。彼女はあまりにも真の男であり、その動き、立ち振る舞い、表情、すべての要素によって、圧倒的な英雄性でお前をいっぱつで打ち据え、輝くようなスタァとしての説得力を発揮してすべてのあほを黙らせる。

もちろんソミンだけではない。1年間かけてはぐくんできた友情は全ての組み合わせがこの回で描写され、それぞれが力を合わせてみあを探す。ここで全員で泣き、全員でグレイトフルシンフォニアへの覚悟が完成したからこそ、あの究極のエンターテイメントが完成したのだ・・・

 

#48 開演! グレイトフルシンフォニア

いよいよグレイトッフルシンフォーニアの開幕である。お前はまず、「すべては・・・ここから始まった!」のセリフとともにこの壮大なサーガの一番初めのOPであるYou may dreamをこれまで登場したスタァ全員で踊るという破滅的な演出を受けて死ぬ。すぐに死ぬだろう。だがまだグレイトフルシンフォニアは始まったばかり・・・いや、始まってすらいないのだ。

第一楽章はLOVE♡MIX、せれのんwith Kといったスタァたちが「未来は何も見えず不安」「人が分かりあう事はむずかしい、くだらない喧嘩で世界は壊れる」といった問題を歴代の名曲ぐんとともに投げかけ、おまえの未来への甘い考えをたちまち粉砕する。自信を打ち砕かれたおまえは、屈辱と無力感で床をのたうち回り、叫び声をあげ、嘔吐するだろう。ビールや女に逃げたくなるかもしれない。だが「未来」をテーマにする以上、そういった部分を描写しない訳にはいかない。それをしないのは逃げであり、どうしようもない腰抜けだ。だが真の男のための物語であるプリティーリズムは逃げない。こういったテーマを投げかけ、少女たちはひとつひとつ肯定しながらも諦めない事を選ぶ。ギャグというオブラートに包まれてはいるが、その奥に潜むメッセージはほんものだ。ギャグにばかり気を取られるおまえ、または「けっ、説教臭いんだよ」などとひねくれたことをいうおまえはどうしようもなく愚かだ。そんなやつらは当然すぐにそのへんの野良犬とかにころされ、死体に変わるだろう。

第二楽章はプリティーリズム・オーロラドリームの物語・・・・いや、ショウという男のための物語だ。ここまでのショウという男を見てきたお前はショウの事を「八つ当たり男」「器が小さん」「NTR男」「風呂場の石」くらいにしかおもっていなかっただろう。隠さなくても良い。事実おれもこの第二楽章を観るまではそう思っていた。

まずはプリティーリズム・オーロラドリームの象徴とも言うべきMARsの3人があらわれ、作品を象徴するジャンプ、オーロラライジングの光を世界中に見せる。この時点でオーロラドリームの1話からMARsを見守ってきたおまえは震え、ワインを取り落し、カーペットをクリーニングに出すだろう。だが、グレイトフルシンフォニア第二楽章の本番はこれからだ。ほんらいグレイトフルシンフォニアに参加する予定のなかったショウとユンスが舞台にあらわれ、春音あいらという一人のベイブをめぐり、さながらコナンをえんじたシュワルツェネッガーのように剣をふるうのである。だがこれには理由がある。第二楽章のテーマは『愛』・・・みあとヘインより先に「ライバルで友達」という関係をきづこうとしていたショウとユンスだが、愛のために、絶対に譲れない事のためには互いに戦わなくてはならない事もあるのだ。この関係がただのなれ合いではなく、真の男の友情であるというためには決してかかすことのできない描写だ。この「愛を全てに優先させる」という姿勢は次作のレインボーライブにも通じる真の男の姿である。互いの想いをぶつけあい激闘をくりひろげるショウとユンスだが・・・結果はユンスの勝利に終わる。だが、あいらは自分の為にふたりが戦う事に耐えられず、翼を失って奈落に落下してしまう。ユンスはそのへんの蔦を命綱にしてその奈落に飛び込むのだが、その命綱のせいで落下していくあいらに手は届かない。だがショウはちがう。命綱も持たずあいらの元へ飛び降りるのだ。当然無謀な行為なのだが、デザイナーとしての腕も人間としての器の大きさもユンスに負けていたショウが、唯一『とっさにあいらのために命を懸けられるか?』というただ1点でユンスに勝利するのだ。

だが、あいらはショウの手をとろうとはしない。このまま『スタァとデザイナー』という関係でいればショウさんとの繋がりは切れる事は無い。この関係が変化してしまう事が怖いというのだ。ここでも『今の時間を永遠のものにしたい』という思いが現れる。

ディアマイフューチャーという作品のラスボスは阿世知欽太郎個人ではなく、『今の時間を永遠のものにしたい』というタルサドゥームのゆうわくなのだ。

それに対しショウはあいらを抱きしめ「俺たちはきっといつか傷つけあう・・・もしかしたらお前は俺から離れていくかもしれない・・・それでも!何度だって俺はお前を抱きとめる!何度だって俺はお前に恋をする!それが俺の『永遠』だ!」と、未来への不安感を受け入れたうえでそれでもと言い、愛し続け、自分なりの永遠を実現させることを宣言する。あいらは逆に何度も消そうとしても消せなかったというショウへの愛を告白、二人は翼を手にし、ショウがあいらに伝授したジャンプである無限ハグ・エターナルを二人で跳ぶ・・・・・・これこそ真の男の姿である。風呂場の石にしかすぎなかったこしぬけのショウが真の男と化した瞬間だ。主人公であるみあに先んじて自分なりの結論を一つ出している。やつこそこのプリティーリズムの裏の主人公と言ってしまっても決して過言ではないだろう。他の何で負けてもあいらへの愛だけは誰にも負けない・・・初期のあいらそっちのけで勝負だ勝負だ言っていた頃のショウを知っているおまえはやつの成長をみとどけた感動に打ち震え、断末魔の悲鳴をあげて喉とかをかきむしり、失神するか死ぬかするだろう。だがお前が真の男ならばまだ死ぬべき時ではない・・・なぜならグレイットフル・シンフォニアはまだ始まったばかりだからだ・・・

 

#49 失われる明日

第二楽章がオーロラドリームの物語なら、第三楽章はディアマイフューチャーの物語だ。みあとヘインの前にPrizmmy☆とPURETTYのメンバーが現れ、1年間を通して身に付けたジャンプを次々と披露し、歌い、踊り、1年間で経験したエピソードを見せ、プリズムアクトをやりとげる。ここでおれは彼女たちを見届けてきて本当に良かったと感動し、深く感嘆のため息を吐き、ごくりと唾を飲み、汗をぬぐった。口の中はカラカラに乾いていた。ここはメキシコだ。おれはナイフで切ったライムにかぶりつき、ドリトスを食べ、テキーラを流し込んだ。彼女たちはその経験を翼とし、宇宙の果てまでも飛んで行こうとする・・・・・だがそこに恐るべきタルサドゥームがあらわれる・・・・最終楽章をじぶんの望む結末にしようとたくらむ阿世知欽太郎だ。やつはPrizmmy☆を全員燃やし尽くすことで第三楽章の完成までたどり着かせないようにする。だが彼女たちは全員が自分の身を盾に、みあとヘインを最終楽章までたどり着かせる事を選択する・・・・・みあは当然拒否するが、メンバーがOPをバックにみあへの包み隠さない想いを語る・・・・それは正直最初は嫌いだったなどのネガティブな感情も含めて・・・・だからこそ私たちは変われたと礼を告げてみあに全てを託し力尽きてゆく・・・・・おれは獣のように吠え、叫び、愕然と立ち尽くし、泣いた。力なく、膝が折れた。熱い涙が、床に落ちた。おれは、泣いていた。

見届けているだけのおれですらこのありさまなのだから、当事者であるみあのショックは計り知れないものだっただろう。みあが1話からずっと言っていた「一番になる」という事は他人を蹴落とす、上に立つという事とほぼイコールであるという事にここで気づかされる・・・・動けなくなるのも無理はなく、立ち止まってしまうが、阿世知欽太郎は決して待ってはくれない・・・・追い打ちをかけるように阿世知欽太郎が見せた物・・・・・それはみあとヘインがここに来るまでに乗り越えて来たスタァたちが囚われている姿だったのだ・・・・

 

#50 未来の私がいっちばーん!

 ここに来てこのサブ・タイトルである。物語のクラッイマクスであるこの回にこの言葉を使うために一年間かけてこの言葉を作品にちりばめてきたのだろうか・・・・・これはそうとうに計算高いこういであり、確固たるしんねんがあるタフな男でなくてはこれをやり遂げる事は不可能なことが証明されている。(「君は未来人?とか右よし左よし私よし!とかはどこに行ったの?」などとこざかしい事を言うおまえはショットガンでうたれて死ぬことがわかっている)

阿世知欽太郎によって見せられた世界は、敗者たちが勝者となったみあとヘインに対して恨み言を投げかける。これが本当の敗者の声なのか、世界に絶望している阿世知欽太郎が見てきた世界なのかは分からないが、欽太郎は一人でただ美しい思い出に浸っていれば勝ちも負けもなく、このように傷つく事も傷つける事もないという・・・・この考えを完全に腰抜けであると一笑にふす事は、たとえアントニオ・バンデラスでも難しいだろう・・・みあですら完全に否定せず、「それはその通りだがそれはかっこ悪い」という。おれはこれに深く感動した。誰だって傷つくことは怖いし、それを否定する事は嘘であり逃避だ。これまでのグレイトフッルシンフォニアではむしろ未来は辛いことの方が多いと描写している節すらある。(というかそもそも今の阿世知欽太郎自体が究極のエンターテイメントを目指して努力を続けるも報われなかった結果だ)

だがそれでも未来に向かうべきだというみあに対し欽太郎は綺麗事を言うな!!!!とキレるのだがここでのみあの返しは

私たちはプリズムスタァだ!!皆が進む道は明るいって!!未来は美しく輝いてるって!!私達が言わなきゃ!!誰が言うんだ!!!」と綺麗事であるという事を認めたうえで、綺麗事だと分かっていても未来は明るいと言い続ける・・・・それこそがアイドル・・・・偶像であるからだ。アイドル・アニメだからこそ成し得た主張であり、この時点で『アイドル』というものをテーマに扱う作品はディアマイフューチャーをもってこれ以上ない完成を見せてしまった・・・・・おれが今までアイドル・アニメだと思っていたものはただ主人公の職業・うちこむものとしてたまたま「アイドル」が選ばれていただけだったという事を思い知らされ・・・・おれは泣いた・・・・・これ以降アイドルをテーマに作品を作る事はざんねんながらギターケースを持ったマリアッチに丸腰で挑むことのように無謀であると言わざるをえない・・・・(それはそれとしてレインボーライブもプリパラもプリチャンも同様に真の男のための物語なので見るべきだ)

さまざまな作品で掲げられるテーマをはっきりと『綺麗事』と断じてしまうという作品としてとてつもない事をしてはいるが決してその主張を否定してはいない。ある意味究極のひねくれ方をしているが、それすらも包み込む懐の広さを持った作品なのである。ゆえに、「女児アニメは綺麗事を言うから気に食わないぜ」などとぬかすあほや、「おれはひねくれているから説教臭い話は気に食わないぜ」などと作品をダシに自分語りをするうらなり坊やは粉々に粉砕され死ぬだろう。

それと同様に阿世知欽太郎もやはり粉々に粉砕され、「子供が偉そうに大人に説教するな!」とあほのような反論しかできずに、最終楽章への扉を閉じようとしはじめる。

みあは「やっとわかったよ。私がどんな『一番』になりたいのか」と微笑み、「これが私の『一番』だ!!!!」と叫び、ヘインを閉じゆく扉に向かって投げ、阿世知欽太郎とともに扉の前に残り闇にのまれてゆく。みんなを未来に連れていく事、それが自分の一番だというのだ。おれはこの展開に度肝を抜かれ、震え上がった。そしてテキーラをひとくち飲み、カウンターに突っ伏して、ひとり、哭いた・・・・。たいていの場合、主人公は勝つ。ましてや1話から口癖のように1番1番と言っていた上葉みあならばなおさらのことだ。もしくは46話で決着を先延ばしにしたのだから、どちらが一番になるかはなあなあで終わらせるのではないかとすら思っていた。だがみあは自ら『一番にならない事』を選択した・・・・いや、『自分の一番』を見つけ出し、それに準じたのだ・・・・思えば『スタァがそれぞれの役割を演じて作り上げる究極のエンターテイメント』であるグッレイトフルシンフォニア自体が・・・・いや、プリズムアクトという存在自体がこの展開への伏線だったのだ・・・・・おれは信じきれなかった自分を恥じた。そして関係者に手紙をしたためた。「タツノコプロ・・・・I'm SORRY」と。

最終楽章に一人で到達したヘインは色のない世界を見ている。ここはみんなの力で到達した『一番』なのに、ここにはその誰一人としていないからだ。大切なものが欠けている世界(=色がない世界)なのである。ここでヘインが挙げる人物たちがスタァのみならず、社長やコーチと言った人物まで含めているのがおれは素晴らしいとおもう。

阿世知欽太郎とともに残ったみあは、『最終楽章に到達させない』という目標すらかなわなかった欽太郎にも救いの手を差し伸べている。夢を追いかけるあまりに狂い、ベイブ達に逃げられた欽太郎に「あなたは孤独じゃない、私がいっしょにいる」と言う。これこそがアイドルの力であり、アイドルにしか成しえない事であり、これもアイドル・アニメでしか成しえない主張だろう。(普通の女子高生とかがアニメのヒロインであるというだけの理由でこれを抜かしていたらお前は何様だと言われ、GUNでころされていただろう)「みあ・・・・You Are Mexico・・・・」テレビ画面の前で息を飲んでいたおれは、思わずそう呟いたものだ。

そしてこれまでのエピソードで登場したゲストキャラたちや観客たちが再登場し、みあに応援という力を与える。(プリティーリズムはゲストキャラだからと言って使い捨てにはしないしんのおとこだ)ヘインや力尽きていった仲間たちも立ち上がり、それもみあにちからを与える。アイドルが観客に希望を与えると同時に、観客もアイドルに力を与えているのだ・・・・そして初期からずっと使っており、進化を続けるジャンプ『きらめきフューチャースター』で閉ざされた扉を破壊し、『ヘイン一人の世界』と『外の世界』を繋げる・・・・これはアイドルのみならず音楽、小説、演劇、映画、ドラマ、アニメ、漫画、ゲームとかいった全てのエンターテイメントがもつ「希望を与える」という役割をきゅうきょく的に表現してしまった・・・・(「希望?おれは絶望的な救いのない作品がすきなんだぜ」とひねくれたおまえは言うかもしれないが、だとしたらおまえは『好き』という感情を持っている時点で希望を与えられていることに気づいておらず、ひとりでおおきくなったつもりでいるうらなり坊やだ)

そうして『全員で勝ち取った一番』を実現させ、真の最終楽章を始める。そこは先ほどの色のない世界とは打って変わって、色とりどりの花に包まれた世界だ。花に包まれ、欽太郎は『みんなが笑いあえる物語』を作る事を目指していたからこそ、誰かが傷つくことを恐れるあまり、前に進めなくなってしまった事を悔いる。この男も真の男となる資格・・・やさしさをじゅうぶんに持っていた。だがあまりにも優しすぎたあまりに狂ったのである・・・・そのことに気づき、嫁と娘のふたりのベイブに寄り添ってもらえるようになった彼の未来はあかるいだろう・・・・

かくして真のグレイトフルシンフォニアの最終楽章は、全員に未来を見せ、作品名をかんするジャンプ『Dear My Future』を飛ぶことで、グランドフィナーレをむかえる。

もちろんエンターテイメントをテーマに続けていただけあって、ラストはカーテンコールである・・・・(からくりサーカスとかもそうだった)

 

ここで物語はグランドフィナーレを迎えるが、『プリティーリズム・ディアマイフューチャー』にはもう一話、#51 Dear マイフューチャー がそんざいしている。最終話がまるごとエピローグなのである。この話についておれがいままでのように逐一語る事はしない。なぜならこの話はオーロラドリームからつづく壮大なサーガの総決算であり、この話について逐一語るという事は、結局はプリティーシリーズの100話以上あるエピソード全てについて語る事に相違ないからだ。もちろんおれはそれもやぶさかではないが、それはつまりサーバのばくは、むえきな殺生につながる。ここまでながながとしゃべっておいてあれだが、優れた物語に言葉など不要なのだ。この記事はおれが書きたいからかいた。しんのおとこはそういう態度でいるべきだ。だが、一つだけ言わせてもらうならば、空港でみあが泣きながらDear My Futureを歌うシーンは、あれはあくようすれば人間一人を脱水症状でころす事ができるとおれはおもっている。

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